FAZER LOGIN最後の出勤日の朝はよく晴れていた。
研究室の窓から差しこむ春の光が、リゼットの机の上にまっすぐ落ちている。
背をそろえて並べた書類、日付順に整えた棚、インク壺の置き場所まで決めた小さな一角。 自分の手で作ったこの場所を、今日のうちに片づけてしまわなければならない。リゼットは読み終えた契約書の束を一つずつ紐でくくっていった。
次に来る査読係が困らないように、どの棚に何があるのかを書きつけた紙を、いちばん上に添えておく。引き出しの奥から、赤インクのペンが出てきた。
初日に、存在しない「二月三十日」に印をつけたペンだ。 あの日から、まだ半月も経っていない。 零時の鐘を聞きながら祈った夜も、伯爵の婚約の条文を見つけた昼も、客たちの冷たい視線の中で契約書を開いた夜会も、全部この短いあいだの出来事だった。明日からは、叔父の言う「支度」が待っている。
帰りにプリュム文具店に寄って、アンリに別れを告げていこう。 いつかあんなお店を、と口にした夢は、この机と一緒にここに置いていくしかなかった。「本当に、辞めてしまうんですね」
書棚の陰から、ルネが顔を出した。
いつもは表情を崩さない助手が、今朝は少しだけ眉を下げている。「お世話になりました、ルネさん。先生の生活のお手伝い、これからもよろしくお願いします」
「それは、言われなくてもやります。……ただ」
ルネは言葉を選ぶように間を置いて、ちらりと部屋の奥の扉を見た。
「先生は、ゆうべ一睡もしていません。今日だけは、先生の頼みを最後まで聞いてあげてください。お願いします」
どういう意味か尋ねる前に、ルネは書類の山の向こうへ引っこんでしまった。
昼近くになって、ようやくテオドールが研究室に現れた。
リゼットは思わず手を止めた。
えんじ色のくせ毛はいつもよりひどく跳ね、目の下の隈は一段と濃く、シャツの襟は片方だけ裏返っている。 そしてインクの染みは指先どころか、手首のあたりまで広がっていた。 一晩じゅう、何かを書き続けていたとしか思えない姿だった。「おはよう、ベルナール嬢」
「おはようございます、公爵様。……大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。たぶん。いや、よく分からない」
公爵はなぜか彼女と目を合わせようとしなかった。
裏返った襟をルネに黙って直されても、されるがままになっている。 机の周りをうろうろと歩き回り、紙の塔にぶつかりかけ、ルネに無言で支えられる。 それから深く息を吸いこんで、ようやくリゼットの前で足を止めた。「最後に、一通だけ査読を頼めるかな」
差し出されたのは、見慣れない紙だった。
普通の契約書よりずっと厚く、四辺には細かな術式の枠が描きこまれている。 インクはまだ新しく、ところどころに書き直した跡があった。紋契約の草案だ、とリゼットはすぐに気づいた。
契約院で扱う契約の大半は、手書きの署名に魔法印を押す魔法印契約だ。 けれど紋契約は違う。 双方が指先から魔力を流して署名し、成立すれば紙は光になって消え、その約束は体と言葉を縛る。 書ける魔導契約士はこの国に数えるほどしかいない。 実物の草案を見るのは、彼女も初めてだった。「もちろんです。それが、わたしの仕事ですから」
リゼットは受け取った草案を手に、窓際の自分の机に戻った。
この机で読む、最後の契約書になる。 そう思うと、紙の手触りまでが、いつもより少し特別なものに感じられた。一行目から、人差し指で行をなぞりながら読みはじめる。
――第一条 本婚姻の期間は一年とし、満了の日の零時をもって自動的に解消する。
リゼットは瞬きをした。
婚姻の契約だった。 それも、期間を定めた婚姻だ。八日後に迫った見合いのことが、頭に浮かんだ。
逃げたら、叔母は泣きます。 王妃陛下のあの流れるような筆跡を思い出す。 一度結婚して、一年後に別れてしまえば、王家はもう縁談を持ちこまない。 そういう慣習があると、どこかで聞いたことがある。 この人は見合いから逃げるために、誰かと契約結婚をするつもりなのだ。誰と、だろう。
胸の奥がなぜか小さく軋んだ。
リゼットはその感覚を振り払うように、次の行へ目を移した。――第二条 甲は、乙の実家の債務を全額肩代わりする。
指先が止まった。
乙の実家には、借金があるらしい。 それを肩代わりする代わりに、一年だけ妻になってもらう。 筋の通った取引だった。 まるで、どこかで聞いたような話だ、と思いかけて、リゼットはその考えを急いで打ち消した。 この国に借金を抱えた家の娘など、いくらでもいる。――第三条 寝室は別とする。
――第四条 乙は、甲の研究を妨げない。
いかにもこの人らしい条文に、思わず口元がゆるみかける。
研究室の紙の塔と、同じ本が三冊並んだ机が目に浮かんだ。 そして、次の一行が目に入った。――第五条 双方、相手に愛を告げてはならない。
リゼットはその一文を、二度読んだ。
一年後に別れる約束の結婚に、情が入りこめば、きっと揉める。 理にかなった条文だ、と彼女は思った。 このときは、まだ。――第六条 公の場においては、仲睦まじい夫婦として振る舞う。
人前でだけ、仲の良い夫婦を演じる。
この人が誰かの手を取って夜会の広間を歩く姿を思い浮かべて、リゼットは知らず、唇を噛んでいた。 どうしてそんなことが気になるのか、自分でもよく分からなかった。条文はそこで終わっていた。
その下に、署名欄が二つ並んでいる。甲の欄には、テオドール・グランヴィルの名前が、見慣れた癖のある字で書きこまれていた。
そして、最後の一行。
乙の欄。リゼットはそこに書かれた名前を読んだ。
一度読んで、意味が分からなかった。 二度読んで、紙を持つ手が震えた。 三度目に読んだとき、窓の外の鳥の声が、急に遠くなった。――乙 リゼット・ベルナール
癖の強い字で埋め尽くされた草案の中で、その名前だけがほかのどの文字よりも丁寧に書かれていた。
一画ずつ、確かめるように。 何度も書き直した跡が紙の上にうっすらと残っていた。顔を上げると、いつの間にか、テオドールが机の前に立っていた。
インクまみれの手を、所在なさげに組んだりほどいたりしている。
けれど、その青い瞳だけは今度はまっすぐに彼女を見ていた。リゼットの心臓が耳の奥でうるさく鳴っていた。
顔は真顔のままなのに、耳と首筋だけがじわじわと熱くなっていく。 聞き違いであってほしいような、聞き違いであってほしくないような、自分でも名前のつけられない気持ちが、胸の中でせめぎ合う。 窓から差す光の中で、公爵は一つ、大きく息を吸いこんだ。「一年だけ、僕の妻になってほしい」
研究室の空気が、止まった。
書棚の陰で、ルネが息をのむ気配がした。「報酬は、君の家の借金の全額だ」
この三日間のことを、リゼットはあまり細かく思い出したくなかった。父にはすべてを話した。一年だけの契約の結婚であること。借金は公爵が肩代わりしてくれること。一年後には円満に離縁して、家に帰ってくること。父は長いあいだ黙っていた。それから土のついた手で顔を覆い、すまない、と一言だけ言った。父のせいではない、と何度言っても、その手は顔から離れなかった。叔父には公爵家に嫁ぐことになった、とだけ伝えた。叔父は一瞬、ひどく顔をこわばらせた。けれど借金がすべて片づくと聞いた途端、手のひらを返したように上機嫌になり、さすがは我が姪だ、と口ひげをひねってみせた。そして三日後の朝、リゼットは父と並んで、契約院の奥へと続く廊下を歩いていた。紋契約の間は契約院でいちばん古い部屋だった。高い天井まで届く窓から、春の光が斜めに差しこんでいる。床には大きな円が描かれ、その中央に、白い石の台が一つ置かれていた。壁に並んだ古い紋の図が光を受けて、かすかに浮かび上がって見える。台の向こうには、ひっつめ髪に眼鏡をかけた女性が立っていた。契約院の院長、ソランジュだ。背筋の伸びた立ち姿に、厳しさと公平さが同居している。「グランヴィル顧問。本当に、期限は一年でよろしいのですね」「ええ、院長。条文のとおりです」テオドールは、今朝はくせ毛をいくらか撫でつけてきたらしかった。それでも襟足のあたりで、何本かが言うことを聞かずに跳ねている。「期限つきの紋契約は、前例が多くありません。わたくしは、軽々しく結ばれる契約を好みません」院長は眼鏡の奥から、リゼットに視線を移した。「乙。あなたは、この契約書を最後までお読みになりましたか」「三度、読みました。赤も入れました」リゼットが答えると、院長の眉がほんのわずかに上がった。ほんの少しだけ、口元がゆるんだようにも見えた。「よろしい。では、署名を」石の台の上に、赤インクの書き込みを清書した契約書が広げられた。四辺の術式の枠が二人の魔力を待つように、淡く光を帯びはじめる。先に手を伸ばしたのは、テオドールだった。インクの染みた人差し指を甲の欄に当てると、指先から琥珀色の光があふれ出した。光は細い線になって紙の上を走り、彼の名前の上にもう一度、名前を描いていく。リゼットは息を整え、乙の欄に人差し指を置いた。指先が
窓から差しこむ光はいつの間にか午後の色に傾いていた。赤インクの書き込みで埋まった草案が、机の上で静かに乾いていく。ルネは書棚の陰から出てきて、三人分のお茶を淹れはじめていた。「この条項は、何のために?」リゼットは第五条の上に人差し指を置いたまま尋ねた。ほかの条項は、どれも理由が読めば分かった。けれど、この一行だけは書いた人の口から聞いておきたかった。テオドールは湯気の立つカップを受け取りながら答えた。「感情は、契約の敵だからね」「敵、ですか」「一年後に別れると決めている結婚に、情が入りこんだらどうなると思う? どちらかが離縁を渋る。条文の解釈で揉める。最後には、契約そのものが壊れる。僕はそういう契約を、契約院でいくつも見てきた。財産の分け方で何年も争って、最後には、誰よりも相手を憎むようになった夫婦もいた」公爵の声はいつになく真面目だった。青い瞳が遠いどこかを見ている。「だから、最初から封じておく。一年後に、お互い笑って別れられるように」リゼットはその一行をもう一度読んだ。双方、相手に愛を告げてはならない。母を亡くしてからの父を、リゼットはずっと見てきた。今でも寝言で母の名前を呼ぶ父を。情というものが、どれほど人を弱く、そして離れがたくするのか、少しは分かっているつもりだった。条文としては、筋が通っていた。叔父のような人が書く、相手を縛るための条項とは違う。これは、二人がきれいに別れるための条項だ。「賛成です」「本当に?」「はい。そもそも、公爵様がわたしに愛を告げる心配など、ありませんけれど」「それを言うなら、君だって僕にそんな心配はないだろう」二人は顔を見合わせて、同時に小さく笑った。書棚の前でカップを傾けていたルネが、なぜか天井を仰いだ。「ついでに、仕組みも説明しておこうか」テオドールは草案の四辺に描かれた術式の枠を指でなぞった。「紋契約は、署名した二人の体と言葉を縛る。第七条なら、許可なく触れようとすれば弾かれる。第三条なら、寝室の扉が開かない。第五条は、少し特別でね。恋情を伴う言葉にしか反応しない」「恋情を伴う言葉、ですか」「そう。言葉そのものではなく、言葉に込められた気持ちを見る。だから、感情がなければ、何の制限にもならない。あってもなくても同じ条文だ」「なら、安心ですね」リゼットがあっ
研究室の時計の音だけが、やけに大きく聞こえていた。窓から差す昼の光が机の上の草案と、その上に置かれたインクまみれの手を照らしている。ルネは書棚の陰で、息をひそめたまま動かない。リゼットは手の中の草案に目を落とした。乙の欄に書かれた自分の名前は、何度見ても消えない。顔は真顔のままのはずなのに、耳だけがまだ熱かった。「……もう一度、一行目から読ませてください」テオドールがぱちりと瞬きをした。「今度は、査読係としてではなく」青い瞳が見開かれ、それから、ほっとしたようにやわらいだ。断られなかったことに、心の底から安堵した顔だった。リゼットは椅子に座り直し、引き出しから赤インクのペンを取り出した。契約院に来た初日から使っている、あのペンだ。人差し指で第一条をなぞりながら、彼女は最初の問いを口にした。「まず、理由を伺えますか。なぜ、公爵様が契約結婚を」「縁談よけだよ」テオドールは椅子を引き寄せ、彼女の机の向かいに腰を下ろした。「叔母上は、これからも十日ごとに見合いを用意してくる。だが王家には、一度離縁した当主には二度と縁談を持ちこまない、という古い慣習がある。つまり一年だけ結婚して、円満に離縁すれば、僕は一生、見合いから解放される」「一年、というのは」「来年の春までに仕上げなければならない研究がある。王家から預かっている、大きな研究だ。その一年を、見合いの席で潰したくない」そう言って、テオドールは得意げに胸を張った。「どうだい。完璧な計算だろう」一年だけの契約妻と、六十を過ぎた金貸しの後妻。比べるまでもない取引だった。借金は消え、父は家と薔薇の庭を失わずにすむ。それなのに胸の奥のどこかが、数字では割り切れない小さな音を立てている。天才なのか、残念なのか。リゼットは心の中でつぶやき、それから、どうしても言わずにはいられなかった。「公爵様。先日の夜会で、ご自分の結婚は条文で決めるものではない、とおっしゃいませんでしたか」「あれは、他人が書いた条文の話だ。自分で書く条文は別だよ」悪びれもせずに言い切る公爵に、書棚の陰からルネのため息が聞こえた。リゼットは草案に向き直り、第二条の上でペン先を止めた。――甲は、乙の実家の債務を全額肩代わりする。「ここに、一言足させてください」彼女は赤インクで、行のあいだに小さく書き入れ
最後の出勤日の朝はよく晴れていた。研究室の窓から差しこむ春の光が、リゼットの机の上にまっすぐ落ちている。背をそろえて並べた書類、日付順に整えた棚、インク壺の置き場所まで決めた小さな一角。自分の手で作ったこの場所を、今日のうちに片づけてしまわなければならない。リゼットは読み終えた契約書の束を一つずつ紐でくくっていった。次に来る査読係が困らないように、どの棚に何があるのかを書きつけた紙を、いちばん上に添えておく。引き出しの奥から、赤インクのペンが出てきた。初日に、存在しない「二月三十日」に印をつけたペンだ。あの日から、まだ半月も経っていない。零時の鐘を聞きながら祈った夜も、伯爵の婚約の条文を見つけた昼も、客たちの冷たい視線の中で契約書を開いた夜会も、全部この短いあいだの出来事だった。明日からは、叔父の言う「支度」が待っている。帰りにプリュム文具店に寄って、アンリに別れを告げていこう。いつかあんなお店を、と口にした夢は、この机と一緒にここに置いていくしかなかった。「本当に、辞めてしまうんですね」書棚の陰から、ルネが顔を出した。いつもは表情を崩さない助手が、今朝は少しだけ眉を下げている。「お世話になりました、ルネさん。先生の生活のお手伝い、これからもよろしくお願いします」「それは、言われなくてもやります。……ただ」ルネは言葉を選ぶように間を置いて、ちらりと部屋の奥の扉を見た。「先生は、ゆうべ一睡もしていません。今日だけは、先生の頼みを最後まで聞いてあげてください。お願いします」どういう意味か尋ねる前に、ルネは書類の山の向こうへ引っこんでしまった。昼近くになって、ようやくテオドールが研究室に現れた。リゼットは思わず手を止めた。えんじ色のくせ毛はいつもよりひどく跳ね、目の下の隈は一段と濃く、シャツの襟は片方だけ裏返っている。そしてインクの染みは指先どころか、手首のあたりまで広がっていた。一晩じゅう、何かを書き続けていたとしか思えない姿だった。「おはよう、ベルナール嬢」「おはようございます、公爵様。……大丈夫ですか?」「大丈夫だ。たぶん。いや、よく分からない」公爵はなぜか彼女と目を合わせようとしなかった。裏返った襟をルネに黙って直されても、されるがままになっている。机の周りをうろうろと歩き回り、紙の塔にぶつかりかけ、
夜会の翌朝、研究室には、いつもより早く日が差していた。窓際の机に朝の光が落ち、整然と並んだ書類の背を白く照らしている。リゼットはその光の中で椅子に腰かけたまま、しばらく書類に手を伸ばせずにいた。扉が開き、テオドールが入ってきた。どこか落ち着かない足取りで、目の下にはうっすらと隈が浮いている。「おはよう、ベルナール嬢」「おはようございます、公爵様。昨夜は、お聞き苦しいところをお見せしました」先に頭を下げると、テオドールは困ったように頭をかいた。インクの染みた指がえんじ色のくせ毛をさらにかき乱す。「いや、その……本当なのかい。ドナン男爵のところへ、というのは」リゼットは少し迷ってから、頷いた。隠しても、いずれ分かることだった。「父の名義の借金があります。わたしが男爵様のもとへ嫁げば、帳消しにしていただけるそうです。叔父が、話をまとめてくれました」「君は、それでいいのか」まっすぐな問いだった。リゼットは膝の上で指を組み、窓の外に目をやった。「借用書は、最後まで読みました。隙のない契約書でした。わたしが嫁げば、父は家を失わずにすみます」言いながら、父の手を思い浮かべていた。毎朝欠かさず薔薇の世話をして、土にまみれて帰ってくる手。組んだ指に、知らず力がこもる。あの庭を手放させるくらいなら、自分が嫁ぐほうが、ずっと筋の通った取引だった。点のない署名のことは、口にしなかった。確かめようのない小さな違和感を、この人に背負わせる理由はない。テオドールは黙りこみ、眉間にインクの染みた指を当てた。何かを考えこむときの癖らしかった。そこへ、ルネが一通の封筒を掲げて入ってきた。「先生、もう限界です。王宮から使いの方が見えて、今日こそお返事をいただくまで帰らないと、下で待っていらっしゃいます」もう何日も机の山に埋もれていた、あの王宮の封筒だった。テオドールは観念したように封を切り、中の便箋に目を通した。そして読み進めるにつれて、みるみる顔が青ざめていった。「……叔母上だ」「叔母上、ですか?」「王妃陛下は、先生の叔母君なんです」ルネが小声で教えてくれた。テオドールは便箋を机に置き、額を押さえた。リゼットの位置からでも、流れるような筆跡の最後の数行が読めた。――お見合いは、あなたがこの手紙の封を切った日から数えて十日後に、王
ボーモン伯爵家の屋敷は王都の丘の上に建っていた。坂道を上る馬車の窓から、無数の魔法灯にともされた屋敷が見えてくる。夜空の下で、そこだけが昼のように明るく浮かび上がっていた。「君は査読係として来てくれればいい。僕の隣に立っていてくれるだけで、心強いから」向かいの席で、テオドールが言った。リゼットは膝の上で手を重ねたまま頷いた。身につけているのは、母の形見の、淡い若草色のドレスを仕立て直したものだ。流行からは少し外れているが、丁寧に手入れをしてきた自慢の一着だった。それでも伯爵家の夜会に足を踏み入れるのかと思うと、指先が冷たくなる。今夜はいつも結んでいる髪を下ろしている。ゆるく波打つプラチナの髪が背中で揺れるのが落ち着かなくて、彼女は何度も後れ毛を耳にかけ直した。馬車に乗りこんだとき、そんな彼女を見たテオドールは、しばらく言葉を失って固まっていた。理由を尋ねる前に、彼は窓の外へ目をそらしてしまったけれど。そして何より、目の前の公爵が落ち着かなかった。えんじ色のくせ毛を撫でつけて後ろへ流し、黒の正装に琥珀色のタイを締めたテオドールは、研究室で紙の塔に埋もれている人と同じ人物とは思えなかった。いつもの猫背まで、今夜はまっすぐに伸びている。ただ、手袋の縫い目の隙間からインクの染みがほんの少しのぞいている。それを見つけて、リゼットはようやく少しだけ肩の力を抜いた。屋敷の大広間は音楽と香水と笑い声で満ちていた。天井から下がる大きな飾り灯が磨きあげられた床に光の粒を散らし、着飾った人々がその上をゆったりと行き交っている。正装の公爵が広間に足を踏み入れると、あちこちで令嬢たちの扇が止まった。研究室にこもりきりの変わり者が、こんなに見栄えのする方だったなんて。そんなささやきが聞こえてきて、リゼットはなぜか、少しだけ落ち着かない気持ちになった。「テオドール様! 来てくださったのね」人の波をかき分けて現れたのは、ミレイユだった。研究室に現れたときよりも、さらに華やかに装っている。彼女はテオドールに微笑みかけ、それからリゼットに目を移した。「あら。査読係さんもご一緒でしたの」「リゼット・ベルナールと申します。今夜は、公爵様のお供で参りました」「そう。ベルナール嬢ね」ミレイユは扇で口元を隠し、リゼットを、下ろしたプ







